塩地峠(しおちとうげ)

山崎への道、塩地峠は千種の生活を支ええてきた峠の一つであった。

下河野の砂子(すなご)から大澤(おおさわ)の小河内(おおごうち)へ通ずる標高四百五十メートルのこの峠は、砂子側からはゆるい登りとなっているが、小河内への下りは急で、大変な峠という印象を与える。

 

砂子の道標は 
 右 ふなこし 
 左 やまさき
と刻まれ、江戸末期から明治・大正・昭和と、旅人の道案内をしたものであり、頂上の地蔵堂には、石の地蔵尊が安置されて、旅人の道中安全を祈念してきたのである。

 

千種からは鉄、炭、板などが山崎へ、山崎からは、塩、酒、油、反物などがこの峠を越して千種へと、交易ルートの最たるものになった時代もあった。

 

明和六年(一七六九)から文政十一年(一八二八)までの六十年間、尼崎の松平遠江守(とうとうのかみ)の領地になった千種全域は、御年貢米を牛馬の背につけ、山崎の出石(いだいし)まで津出したのもこの峠を越してのことである。

 

徳川中期から蹈(たたら)製鉄の経営が山崎や曽根・大阪などの資本家に占められ、粗製品のほとんどがこの峠を越し、また逆に上方の文化がはいってきた。

      下河野側道標


商業・運送

明治22年、下河野から三河へ出る道ができるまでの千種は、他郷へ行くのに坂や峠を越さねばならなかった。

だから当地から出す物資、他郷から入る物資は、すべて人・馬・牛の背によって運ばれた。
この道が開通すると、郡の中心山崎との交流が従来より容易になり、荷馬車では馬一頭を使って今までの数十倍の荷物を、一度に運ぶことができるようになった。

この荷馬車を他の人達は馬力といい、運搬業の人を「馬力挽(ひき)」とよんだ。


明治の終頃、専業・兼業の荷車、荷馬車による運送業の人たちは、40人を超した。
明治22年(新橋ー神戸間鉄道全通)に船越・三河方面への平坦な道が開通するまでは、当村の阿踏(あぶみ)と船越村の名目津和(なめつわ)の間は両側の山が千種川の河岸迫り、道は高いなめら(岩の上)を通る坂道で、安全を祈願した明和4年(1767)(第10代将軍徳川家治)銘をもつ地蔵と年未詳の牛馬安全供養碑がある。


村民は始めて峠や乢(たわ)を越えずして村外に出られる路がひらかれた。
このことは、長い間とじこめられた日陰の土地に、漸く(ようやく)淡い光がさし始めたことであつて、当時の千種村民の明るい喜びが察せられる。


人々の千種村への出入りと、物資の流通がこのときから活発化していくことになった。

郵便

郵便物の輸送は当初は脚夫がしたが、明治22年阿踏を通り三河へ出る道ができ、山崎への通行が便利になり、また郵便物の量も増えてくるようになると、手引車を郵便物専用車として備え付けた。


大正12年6月1日から千山自動車を利用した。

この自動車会社は、千種村岩野辺の上山田喜一郎・山崎の福田屋・安田正作が設立した会社で、千種の千と山崎の山をとって千山とつけたのである。次いで山陽自動車、次いで神姫自動車に変わり、千種ー三河ー山崎間を運送した。

下河野の郵便ポスト

平成27年4月佳日に郵便ポストが新調されました。 



明治7年12月 千種村に初めて千種郵便局 大正5年郵便函を岩野辺、西河内、西山、下河野の4箇所に置く。

明治22年に、下河野村の阿踏を通って三河村・山崎町へ通ずる道は開通し、峠や乢(たわ)を越えなくてもすむようになった。

しかし道幅は狭く、雨が降ればぬかるみ、物資の輸送は困難だった。


何年も何年も下三河村の分岐点から三河村を径て千種村にいたる約4里(16キロメートル)の里道を県道に編入する請願がなされた。


これは千種村だけでなく、山崎町は勿論沿道の村々での問題でもあり、ひては郡全体の産業の発展につながる問題として、郡内全町村長連名の懇願であった。


大正7年この道、千種村から三河村下三河分岐点までは念願かなって県道に編入された。

明治22年下河野と船越(現佐用町)の間に郡道が通じ、宍粟郡の経済中心地 山崎へ馬力による物資の運搬が可能になると、板・丸材・角材など建築用材や木炭が大坂・姫路・神戸・山崎などへ移出され、酒・醤油・石油・黒砂糖などの食料品や日用雑貨が移入された。

 

村は林業のほか養蚕(ようさん)・蓄牛にも力を入れ、養蚕教師の招聘(しょうへい)千種と山崎を結ぶ、下河野から三河を通り山崎への道ができたのが明治22年。

それまでは重い荷物を背負い、あるいは牛馬に頼っての峠(塩地峠。標高450m)越えは厳しく、まして冬場の積雪時は身動きできなかったに違いない。


稚蚕(ちさん)の共同飼育・養蚕組合の設立、優良種牛(たねうし)の購入などを進めた。昭和5年(君が代のレコードが販売される)初めてトラックが1台入り、馬力挽き衆との間で騒動が起る。          

                 「E-宍粟」支援隊そーたんs タケネットより

自動車

山崎~千草間に乗合バスが通ったのは、山崎の福崎屋旅館主と岩野辺の上田喜一郎が合同で始めてからで、約45.46年前県道の改修があった後のようで、昭和9年ごろには青いバス(山陽バス)が通っていた。その後、神姫バスにかわった。

 

開通当初は山崎~千草間は片道1円50銭・所要時間1時間半・日3往復・小型20人乗りで満員のときは次の発車までまたされた。

 

昭和47年3月 兵庫県民族調査報告 千種 兵庫県教育委員会

千種鉄の道 塩地峠

塩地峠(郡第2里道)千種町下河野砂子から山崎町大沢小河内間
明治22年尾崎貞太郎村長時代に幅員6尺(約1.8m)に改修。

延長24丁55間(約3.5km)。

 

八重谷峠が急傾斜であるうえに約1里(約4km)遠いので、山崎行きは塩地峠を利用した。
道路改修前は牛に、改修後は馬に引かせるようになったが、平地で木炭50俵つんでも峠では荷物を何回かに分けて、15~20表で坂を上った。山崎に行くときは夜明け前に出発する。

暗いので馬の横腹のところに提灯をつけ何台も並んで行き、城下の松本炭問屋、警察横の木村問屋に届けたが、1日で日帰り出来ないので、門前にあった馬力引き宿にとまった。

宿屋は1軒であったが、馬屋があり、人びとは相宿で停まり、翌日は酒、醤油や石炭、肥料、ときには反物を積んで帰った。

                        昭和47年3月 兵庫県教育委員会


塩地峠 大沢。小河内の入り口 石沢商店の前
此の道は塩地峠を越して明治初年迄千種鉄並びに木炭の輸送路として重要な役を果していた。

帰りには山崎,三日月より生活用品を搬入する要路であつた。又大沢にても千種より砂鉄を運び村内の木材を燃料として製鉄をしていた、当時砂鉄は婦人の背に運ばれたと伝えられる。
                         昭和61年6月 山崎郷土研究会


塩地峠は下河野より本郡土萬村大澤に通ずる坂路にして郡第2里道開けたりと雖荷車の通行極めて少なし、此の坂路は屈折多きを以て名あり、江浪峠と相對峠して南北縦断線とす。
「辛き世の例なるらん鹽地坂重き荷車ひかせおさせつ。」                                                田口石太郎

千種村是

大沢 小河内入口の塩地峠 道標