八重垣神社(やえがきじんじゃ)

所在

兵庫県宍粟市千種町下河野字宮ノ下63番地。


祭神

須佐之男命、玉依姫命(元猶原妙見神社祭神)(ならばらみょうけんじんじゃ)。

      

縁起

①もと千草町の大森神社の氏子であったが、元禄9年(1694)の祭礼で村役人席順についての争論があり氏子を 離脱。

    

② 同年美作国吉野郡海内(みうち)から八代荒神(はちだいこうじん)を勧請(かん 

じょう)(神道では,離れた土地より分霊を迎え遷座鎮祭すること)し八代荒神宮とせ り寛永年中(1624年~1645年)社殿改築のことあり、大工頭粱赤穂郡木津村村 坂越金右衛門政持なり。

 

③明治8年(平民でも苗字(姓)をもつ)社格制定により村社に列し、明治7年八重垣神社とせり。

 

④明治43年字猶原元無資格社妙見神社を合祀。

境内坪敷140坪、官有地第1種に属し外に2反5畝歩明治38年境内編入せられる。

建坪神殿3合、同上屋形7坪1合1勺、拝殿神楽殿22坪5合(元拝殿を大正6年神楽殿と改 称す)にして祭日例祭10月28日、同29日,夏祭6月28日なり、氏子下野一圓50戸なり。

                                        (大正9年発行 千種村是より)

 

八代荒神宮社名改正の史実
①八代荒神社名改正は、明治六年中、千草村に内海泰治なる者戸長役を勤め居たる時、都多村集会所へ神社の件に付出頭致し、区長石原恒和殿より此度明神号荒神社名被廃候に付きては、当下河野村社の社名如何改正と尋問を請け、甚だ迷惑に及び内海氏は大いに心配致し心中にて一心に祈願を込め、心案を致し居り候処、我に西南の方より一時に大風吹き来るは、思いも無く不思議に心中に社名浮び、何気無く八重垣社と答えたり、依て其の時より八代荒神社を改名し八重垣神社と称えたり
其の由を此処に書残す。

明治七年八月十一日
                            播磨国宍粟郡中三河村
                郷社大森神社 詞(し)掌(しょう) 大住 左内
                  同国 同郡 下河野村 総代 竹内 喜之助
                             同   山根 伊三郎
                              右の通り違無之候也 

                                             (昭和58年発行 千種町史より)

八重垣神社 社叢 (宍粟市指定天然記念物)


農村歌舞伎舞台(宍粟市指定文化財)

八重垣神社境内に農村歌舞伎の舞台がある。

この地方には農村の歌舞伎舞台が敗戦ごろまで地区ごとにあり、そこで芝居が演じらた。

上演目は秋祭りで2日演じた。

役者になることは若衆の務めであり、各家から1人は出た。

そのために姫路地方からテツヶ(振付け師)を雇ってきて10日から15日間位練習したという。

秋仕事の最中に昼間練習するので、人手不足で困ったが、村中の人が見る前で大根役者であると恥ずかしいので、辛抱して練習に出したという。

道具・衣裳類も若衆頭が車をひいて、一晩泊まりで姫路までかりにいったという。

村人はこの芝居を見るのが楽しみで、重箱にご馳走を入れ背負っていって、飲んだり、食べたりしながら、見たという。

女性はこの日は髪は髪結にいって、丸髷に結ってもらってみにいった。丸髷でなければ、恥ずかしくてみにいけなかったという。

          (農村歌舞伎舞台兵庫県民族調査報告 千種 兵庫県教育委員会)


八重垣神社 神殿

立毛開願(たちげかいがん)

田畑で育成中の農作物。主として稲についていう。

稲穂が立派なお米に成りますように。

秋祭り 八重垣神社・猶原神社

神社の年間の祭礼行事は村内(むらうち)を五組に分け、一組が一年間、頭屋を勤め、秋祭りの祭礼の日に、祭礼終了の後、引継ぎと申し送りをして交替する。

昔は祭りのご馳走を現の頭屋が持ち寄り、夜遅くまでお酒を飲みながら次回の頭屋に接待をして引き渡した。今は仕出し弁当を取り寄せるようになった。

頭屋(とうや)とは、神社において行われる祭礼や神事などの行事の執行に関して、中心的な役割を果たす人もしくは家。

当屋・祷屋・当家などの表記が行われる場合もある。

奉納子ども相撲

献饌(けんせん)

祭詞奏上 玉串奉奠

餅撒き

夏祭り 八重垣神社・猶原神社

平成27年7月26日(日曜日)

平成27年 秋祭り

平成27年10月11日(日曜日)

平成28年秋祭り

                        平成28年10月9日